唐紙の歴史
唐紙は、もともと中国から輸入した紙のことです。外国産のものを唐物というように、外国の紙という意味になりますが、一般的には中国渡来の紙のことをさします。
唐紙は、遣唐使時代に輸入されていて、和紙がまだない時代から使われていました。
天平時代には遣唐使廃止により輸入されなくなった唐紙に代わって、国内で生産した和製の唐紙ができていたようです。
やがて貴族たちが詩や和歌を書き、写経をする料紙として愛用した唐紙の中に文様を施したものが出てきました。紋唐紙と呼ばれるもので、襖紙として使用される唐紙は、この紋唐紙が原型となっています。
輸入がストップした後、国内でまず美術料紙として作り始められ、生産量の確保と共に襖障子用に進出したと推測されます。
そして、唐紙は襖より先に障子紙として使われることが多かったようです。
唐紙師の歴史
唐紙障子がない奈良時代のころ、今の唐紙師的な仕事をしていたのは装潢師(そうこうし)と呼ばれる人々でした。
装潢師は写経用紙を準備し、書写された経を経巻に仕立てる役割をしていました。紙を既定の寸法に断裁して罫線を引き、色を染める作業とあわせて巻子本に仕立てていたようです。
後に料紙に罫線を引く専門家が経師と呼ばれるようになり、さらに経巻の仕立てもするなど、作業の幅を広げてゆきます。奈良時代でいう装潢師のような仕事をする人々が経師と呼ばれるようになりました。
経師は奈良時代では経典を書写する人のことをそう呼びましたが、時代と共に装潢師とひとまとめになったと考えられます。
そのように複数の工程を進める中に唐紙を摺るという作業が入っていたようです。
現在、装潢師の技術は連盟などを通じて保存しながら国宝などの修理にあたり、経師は表具師と呼ばれ、それと別に唐紙工房があり、職人もそれぞれの専門性を活かした技術の研鑽をしています。
嵯峨本
住宅を豪華な襖絵で飾れるのは、一握りの上流階級だけでした。一般の住宅は量産できる絹布や麻布、あるいは唐紙などを屏風や襖に張っていました。
唐紙師は、一般の需要の増加にこたえ唐紙やふすま紙をつくる技術をみがいていましたが、その技術レベルを示す目安となるものの一つが嵯峨本の用紙といわれています。
嵯峨本は角倉本あるいは光悦本ともいわれます。嵯峨本は嵯峨に住む角倉素庵によるスポンサーとしての財力と、光悦のプロデュース力あったからできた書物なのです。
嵯峨本の料紙は光悦紙または光悦意匠ともいわれ、その意匠はほとんど俵屋宗達の図案をベースにしているといわれています。
光悦意匠といわれる宗達の図柄は、唐紙の伝統紋様を模倣しただけではなくオリジナルのものが多く含まれます。植物や動物、風景などを独自の意匠を構成しており、嵯峨本の雲母文様のデザインは伝統の唐紙紋様よりむしろこの新しい意匠が多いのも特徴の一つです。
嵯峨本は斬新なデザインを唐紙の技法によって表現することで、唐紙の世界を広げました。
光悦紙の中の唐紙を摺ったのは、紙師宗二という人物でした。宗二は光悦の芸術村に住んでいて、紙師といっても歌巻や掛軸などの装潢にもたずさわる、いわゆる経師でした。
光悦の発想をもとに、宗達や宗二の意匠を宗二が印刷して仕上げた料紙、雲母紋様唐紙を主体とする光悦紙は、嵯峨本に使われただけでなく、光悦の著作など、のちの時代にも大きな影響を及ぼす「琳派」という文化を生み出したのです。
唐紙を構成するもの
京からかみの文様
京からかみの文様は、使う人々の生活感覚や、部屋の役割、その家の主の社会的地位などによって好まれるものが違います。特に部屋の果たすべき目的や雰囲気は、襖障子に描かれた文様によって大部分が決定されるとも言えます。全体的な文様の流れとしては、古代のものは中国的な文様を取り入れて硬さがあり、江戸時代以降の新しいものは、日本的自然現象を織り込んだ柔らかさが感じられます。
そして大きく区分けすると、“公家好み”“寺社好み”“武家好み”“茶方好み”“町家好み”に分けられます。
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